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闇の箱

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□ 『或る夜の出来事』 □

或る夜の出来事(後編)

或る夜の出来事(後編)




「まったくもう、人が気にしてることを…」
「だから、ごめんねって言ってるじゃないの」
「アイスも食べちゃうし…」
「いいじゃない、まだあるでしょ」
「チョコミントはそれが最後だったの! まだ日曜日よ、水曜日まで二日もあるのに!」
「もう月曜よ」
 私たちのいるお屋敷は、見渡す限り山ばかりのなかにあって、明かりのひとつも見えないほど、街から離れている。だから食料品は、週に二度、メイドさんたちが買い出しに行ってくれる。私たちも欲しい物があるときは、それが私たちに許されたものであれば、その時までにメモに書いておけば、買ってきてもらえる。それは水曜日と土曜日で、今はまだ月曜日になったばかり。ということで、香子さんは怒っているのだった。
「どのみち、こんな夜中にアイスなんて食べたらてきめんに太るわよ」
「どの口が言うのよ、それを!」
「ん」
 憂子さんは自分の唇を指差して、ついでに舌をぺろっと出した。もう、可愛いな、嫌みなほど。いや、可愛いから嫌みとして成り立つのかもしれない。
 私の口の中にオレンジの味が残っているのなら、憂子さんの唇にもまだミントの香りが残っているのだろうか。
「わたしは、もう少しお肉をつけたほうがいいって、ご主人様がおっしゃるんですもの」
「んうっ…、胸はあるのに…」
 確かに、憂子さんは細身だ。何度も裸を見たことがあるけれども、腰回りもそうだけど腕からもうほっそりしている。でも胸はちゃんとあるから、やたらおっきく見える。カップはいくつになるんだろう。今度、脱いだ下着を集めるときにこっそり見てみよう。
「ご主人様がそうお望みになったからよ」
 そう宣った憂子さんはちょっと誇らしげだった。そんな憂子さんに、香子さんは二の句を継がなかった。すこし悲しそうな顔をして黙ってしまった。
やっぱり、ご主人様のことは絶対なんだ、この人たち。
「あーでもアイス…」
 香子さんが初めに戻って恨み言を言い始めた。まるで駄々っ子。こんな人だったんだ、香子さん。それに憂子さん…。

 一番上のお姐さんであるお二人は、いつも優しくて落ち着いていて、すごい大人な人たちだった。私も来たばかりで泣いてばかりいた頃は、香子さんによく気遣ってもらったし、憂子さんにはここでの住み方を教えてもらった。
 どんなに無茶なことをご主人様に命じられても、お二人はいつも微笑んで受け入れて従っていた。先週、ご主人様が殊更苛立っていらした時なんか、みんな酷い目に遭ったけど、お二人は特に辛そうだった。香子さんは“豚の服”を着せられて四つん這いにされて、鼻を鉤で引っ張られて豚顔にされて、鞭で叩かれたり背中に座られたりしていた。憂子さんは腕を縛られ足を開かされ、天井から吊されて、くるくる回されながらダーツの的にされていた。
 鋭く磨かれたダーツの矢は勢いよく憂子さんのからだに刺さって、幾筋もの血が流れて、白い肌を真っ赤に染めていた。痛くないわけないのに、憂子さんは矢が当たっても、ちょっと呻くだけですぐにっこり笑って、10点、5点、20点と、当たった箇所に決められた点数を告げていた。おっぱいが10点、背中が5点、20点は…おまんこだった。よく覚えている。私はその時、バニーちゃんを命じられて、ご主人様の矢が当たったら拍手したりキスして祝福したり、矢を渡したりスコアボードを書いたりしていたからだ。それどころか、私も矢を一本投げるように渡されたのだけれど、それがまぐれ当たりしたのもおまんこだった。よほど痛かったのか、命中した瞬間、憂子さんはおしっこを漏らしてしまった。私は申し訳なくて泣きそうになったけれど、ご主人様は愉快そうに笑っていた。そんな時でも憂子さんは、凄いわとにっこり笑って私のことを褒めてくれた。香子さんもぶひぶひ語で私を労ってくれた。
 憂子さんと香子さんは、完璧なお姉さんで、完全な奴隷だった。ちょっと怖いくらいに。
 だから、こんな一面もあったのかと、驚きだった。今の二人は普通の、とは言えないかも知れないけれど、ただの女の子のように見えた。お姐さんではなく、お姉ちゃんというような感じだった。

「もう…。わかったわ。ちょっと待って、あれ作ってあげるから」
「あ…うん!」
 憂子さんがそう言い置いてソファから立ち上がると、香子さんはやっと駄々が通じた子どものように現金に明るい返事をした。
「多めでね」
「わかってるわ」
 憂子さんは私の横を通って、バーカウンターのほうに歩いて行った。思わず目で追ってしまう。そこには何もないのに、なんだかどきどきしてしまう。身を捩って憂子さんの挙動を気にしてしまう。
「ねえ、小夜ちゃん」
「…っ」
 すぐ近くから声がかかって、私は今夜何度目かのびっくりをした。
 振り返ると、斜向かいに座っていたはずの香子さんが私の隣、すぐそばに移動してきていた。
「なっ…なんですか…」
 いきなり距離を詰められて、さっきみたいに突然キスされるのかと思って、身構えてしまった。声もさっきみたいに、上ずってしまった。
「…さむくない?」
「へっ」
「ガウン一枚だから。明け方、一番寒いよ。ここ山の中だし」
「え、え…いや、だいじょうぶ…です」
「そう?」
 確かにちょっと肌寒くなる季節だし、そろそろ月が沈むくらいの時間になる。けれども、そもそもそのくらい、肌寒くなるのを目処にして、寝床に戻るつもりでいたのだ。そして、見つかってしまってからは、どきどきが止まらなくて、脂汗が出るくらい身体が火照っているので、寒いなんて本当に思いも寄らなかった。
 香子さんは私のガウンの襟を摘んで、指で擦るようにしていました。
「なんか取ってくれば、羽織るもの」
「え…でも…」
「小夜子はご主人様のところに戻るんだから、駄目よ」
 私が躊躇した通りに、憂子さんが牽制してくれた。
「あ、そっか。じゃあ、抱っこしてあげようか」
 香子さんは夏用のネグリジェ一枚だった。私も同じのをいただいているからわかるけれど、透けるように薄い上質の生地で、肌の色から胸のかたちまでよくわかる。香子さんブラつけてないし。なので、さっきのように密着されると、相手の熱も鼓動も、全部余すところなく伝わってしまう。
「え…いえ、ほんとに、だいじょうぶですから…」
 私はソファの端に後ずさって、香子さんから離れようとした。今の香子さんは知らない人みたいで、なんか怖かった。それに、動悸が激しくなっているのを見破られて、問い詰められるのは、もうなしにしたかった。
「逃げなくてもいいじゃない」
「あうっ」
 香子さんが勢いよく、まるで飛びかかるように私の腕を引いて、私は抱き寄せられてしまった。ガウンの袖が大きく引っ張られて、あわせが乱れて素肌が零れ、薄布越しに香子さんの胸と触れ合った。
「ほら、やっぱりちょっと冷たいよー」
「か…かこさん…」
 香子さんはそのまま私を抱きしめて、背中をぽんぽんと軽く叩いたり撫でたりしてくれた。私は、急に抱きしめられたものだから息をするのに苦しく、頭を振ったり身を捩ったりして、位置を修正しなくてはならなかったのだけれど。
 香子さんは温かかった。髪からはシャンプーの匂いがした。なぜか、二種類も。私は目を瞑って、その匂いを吸い込んだ。ご主人様の、男の人の、からだとは違う、やわらかくて温かい香子さんのからだ。その腕に抱きしめられていると、どきどきしているのに、どきどきが治まっていくようだった。
 しばらくそうしていると、香子さんが、静かに呟いた。
「ひとりでいると、冷たくなっちゃうからさ」
 先ほどまでとは違って、とても真剣な声音だった。
「…はい。できたわよ」
 突然、すぐ側で、憂子さんの声が聞こえた。慌てて目を開けようとしても、視界は暗かった。香子さんの柔らかい胸をまぶたに感じるだけだった。
「あ、ありがとー」
 その言葉を契機に、香子さんは私を放してくれた。腕の力を緩められて、私は香子さんの身体から身を起こした。急に離れたからだとからだが共有していた熱が解放され、その分、間に入り込んだ空気を冷たく感じた。
 ひとりは、冷たいんだ。

「さ、小夜子ちゃんも飲も」
 促されてテーブルの上を見ると、銀のお盆の上に、足の長いグラスが三つ置かれていた。中には、緑がかった白、いやモスグリーンのような液体が泡だっていて、なかに黒いつぶつぶが浮かんでいた。ちょうど、さっき憂子さんが食べちゃったチョコミントアイスのようだった。
「え、アイス…?」
「おお、鋭いね。そう、アイスの代わり。美味しいよ」
 香子さんがグラスを両手で取って、ひとつを渡してくれた。残りのひとつは、もちろん憂子さんが取った。
「かんぱーい」
「い、いただきます…」
「どうぞ」
 いちおう、憂子さんに向かって捧げ持って断って、それから口に含んだ。
 味は…なんか変なかんじだった。ミントの匂いがぷんぷんして、味は苦いような、でもチョコレートのような甘いのも舌に当たって、とても複雑だった。なにより、なんか変な味がした。
「な…なんですか…これ…」
「グラスホッパー…のアレンジ」
「憂子ちゃんのお手製カクテルよ」
「カクテルって…お酒、ですか?!」
「そうよ。でもアレンジだからそんなに入ってないけど」
 あとで作り方を教えてもらったのだが、グラスホッパーというのは、ミントとカカオのお酒と生クリームを同じだけ混ぜるのが本式なのだそう。けれどもこれは、香子さんが好きなチョコミントアイスっぽくするために、ココアパウダーを溶かして泡立てたミルクを加えて混ぜるのだという。黒っぽいつぶつぶはココアの粉。当然、ミルクと生クリームの分だけリキュールの比率は下がって、アルコールは抑えめになる。でも、このときの私には、充分強くて、びっくりする味だった。
「お酒って…」
「あ、飲むの初めてだった?」
「はい…」
 子どもの頃、お父さんのビールの泡を悪戯半分に舐めたことはあったけど、それだって遠い記憶だったし、私が自分で飲むのだって、まだかなり遠いことのはずだった。
「いいのかな…?」
 私の呟きを聞きつけて、憂子さんが口を開いた。
「ご主人様は駄目っておっしゃった?」
「い、いいえ。でも…」
「なら、かまわないわよ」
 憂子さんが、グラスに口をつけながら、あっさりと宣った。
「で、でも…私まだ…。香子さんたちだって…ですよね?」
 お二人が何歳か正確には知らないけれど。
「そんな風に、言うのをはばかるほど歳を食ってはいないのだけれど…」
 そんなこと言ってない。むしろこの場合、若い方が問題だ。
「そうじゃなくて…」
「冗談よ。年齢のことを気にしているのなら、私の生まれた国では、十五歳からお酒は飲めたわ。薄めたワインなら子どもの頃から飲んでたし」
 憂子さんの口から、意外な言葉が飛び出した。
「え…、外国の人?」
 そんな風には見えない。確かに端正な顔立ちで、ハーフとか言われたら納得しちゃうかもしれないけど。
「はあ…。みんなそういう反応をするのよね」
「憂子ちゃんは、ちょっと複雑だからね」
 香子さんが話に入って、いや打ち切りにかかってきた。それこそ、これ以上は触れるのをはばかる話題だったのだろう。
「え。と、とにかく、それでも私はまだ…」
「いいんだよ。そんなこと気にしなくて」
「むしろ、そろそろ慣れておきなさい。ご主人様にパーティーに連れて行っていただいた時に、全く飲めないと大変だから」
 この時憂子さんが言った大変ということを、このしばらく後のクリスマスパーティーの時に身をもって知った。ご主人様の側にいる女がジュースばかり探しているのも格好がつかなくて、やっぱりシャンパンとかを飲むことになるのだ。それに夜が更けてご奉仕の時間になると、酔っ払っている方の元に貸し出されることがある。そういう方は、私がお酒を飲んでないのを見て取られると、飲むように言われるのだ。もちろん、お客様のご命令には逆らえるわけもない。飲みつけないお酒を飲まされて、頭がずきずきするなかで満足なご奉仕ができるはずもなく、無理矢理おちんちんを突っ込まれて腰を振らされてしまって、頭も揺れて二重に酔ってずきずきして吐きそうでもう最悪で、堪えるのに必死になってしまったのだった。
「で、でも…」
 そんなことは知る由もなく、私はまだ躊躇っていた。
「真面目ね」
「上にく…きが付くわよ」
「あのね、小夜子ちゃん。じゃあこう考えたらどう」
 香子さんが人差し指を立てた。たったひとつの冴えたやり方だとでもいうように。
「小夜子ちゃんは、ご主人様とセックスしてるよね。なんで?」
「…ご主人様が、望まれたからです。私は、ご主人様の、どれい、なので」
「うん、そうだね。でも普通なら、小夜子ちゃんの歳でセックスしてる子はあんまりいないよね」
「はい…」
 それは、そうだ。当たり前だ。してた子もいるかもしれないが、私の周りにはいなかった。今では、その友達の方が、私の周りにはいないのだけれど。
「大丈夫よ、俯かないで。私だってそうだったから、同じだよ」
 促されて顔を上げてみると、香子さんは微笑んでいた。そして、真剣な目で私を見つめてくれていた。
「でも、私も小夜子ちゃんも、普通じゃないから。憂子ちゃんも、ここにいる女の子たちみんな、普通じゃないから」
 普通…じゃない。
 香子さんは、ゆっくりと、子どもに言い諭すようにして話してくれた。
「私たちは、ご主人様の奴隷だから。だからセックスもするの。していいの。ご主人様がそう望まれたなら、それが正しいの。ご主人様の言葉だけが、私たちが従うべき、守るべきことなのよ」
 凄いことを言っているのに、その言葉には哀しみも辛さもなく、私に言うことを効かせようとする強さもなく、ただただ穏やかだった。
「そうよ。私たちはご主人様の奴隷。ヒトじゃないの、モノなの。ご主人様のものなの。だから、どこの国の法律だって、常識だって、関係ないのよ」
 憂子さんが、香子さんの後ろに立って、話を継いだ。勝手に寝台を抜け出してきた私を怒っているだろうと思っていたのだけど、その語気もまた穏やかだった。アイスを食べていた時のように、涼やかな声だった。
「あなたがどこの国の生まれだろうと、どこで育ったのだろうと、なんて民族だろうと、どんな言葉を話していようと、そんなことは関係ないの。あなたはご主人様のモノ、ただそれだけなんだから」
「はい…」
「あなたが法律を守っても、法律はあなたのことなんか鼻にも引っかけないわ。私たちのことを考えている法律なんて、どこにもないんだから」
 少なくとも、少なくとも私が育った国は、基本的人権というものがあるって授業で習ったし、人間は平等だって言われたりもしていた。それを信じていた。人間じゃなくなることがあったり、人間扱いされないことがあるなんて、誰も教えてくれなかった。
「揚げ足を取りたくなるかもしれないけど、確かに世界には、奴隷階級に対しての法律がある国もあるわ。もちろんその身分の人にとっては不公平で不平等なもので、法律に書かれていることよりもご主人様の実際のご意向のほうが優先される」
 憂子さんのその言葉は、なぜかとても実感を帯びて聞こえた。
「それに、そういう人たちは、それでも人間なの。奴隷階級に生まれただけの人。私たちはそうじゃない。今はただ、ご主人様のモノなの。それ以外の何物でもない」
 ご主人様のモノ。所有物。人間じゃない。生きていても、ただの物。動いていても、物。生き物。動物。言葉を話しても、どうぶつと同じ。セックスができても、ペットと同じ。ヒトに飼われる、モノ。
「物に適用される法律ってのもあるけどね。文化財とか、器物損壊とか。ペットなら動物愛護法とかあるし、絶滅危惧種なら獲っちゃいけないとかあるけど」
「詳しいじゃない」
「こう見えても、成績はわりと良かったの」
「アイスひとつで騒いでるのに?」
 また憂子さんにやり込められて、香子さんがむうって顔になった。でもわかる。ただの軽口だ。その証拠に、香子さんは話を続けた。
「そういう法律はね、みんなが必要だと思うから決められるの。可哀想だと思う人たちが叫んで、みんなの同情を引けば、守ってあげようって決まりができる。でも、」
 思ってくれる、わけがない。子供なのに、男の人のモノになって、毎日セックスしてる、私なんか。
 そもそも、私がこうして誰かのモノになってるってことを知ってる人なんていない。先生だって、友達だって。…義父さんと、お母さんしか…。
「私たちのことを思ってくれるのは、ご主人様だけよ」
 香子さんが、
「私たちのことを、可哀想に思って買ってくださったのも、愛してくださるのも、飼ってくださるのも、ご主人様だけよ」
 憂子さんが、口々に言った。
「ご主人、様…」
「そうよ。ご主人様が仰ることが、私たちのすべて。ご主人様がお決めになることが、私たちのが守るべきこと。ご主人様が望まれることが、私たちの在り方。ご主人様がお気に召してくださることが、私たちの価値。ご主人様に愛していただけるよう努めることが、私たちが生きる意味。それ以外は、何もないの、私たちには」
「はい…」
 憂子さんに滔々と諭され、ここに来る前に勉強させられたことを思い出した。私はそれを、解ったようで解っていなかったのかもしれない。ううん、全然解っていなかった。憂子さんのように、解っている人に言われると、それがよくわかる。
 この人たちは、本当に、ご主人様のモノになってるんだ。
 ご主人様がすべてで、ご主人様のことが大好きで、ご主人様に愛されたくて、そのために何でもするんだ。
 ご主人様から声をかけてもらうだけでも嬉しくて、どんな酷いことを命令されても嬉しいから、喜んでやるんだ。
 躊躇いもなく、それどころか誇らしげに言い切る二人は、とても綺麗で、荘厳で。まるで、神様に仕える巫女のようだった。でも、
 私は違う。
 私はどこかで、いまここにいるこの状況を否定していた。解ろうとしていなくて、諦めていた。諦めて、何もかも終わってしまえばいいと思っていた。どうでもいいと思っていた。
 独りになりたかった。何もかも見ないでいたかった。
 怒られてもいいと思っていた。怒られたいと思っていた。怒られて見捨てられたい。捨てられれば終わる。終わってもいい。こんなわけわかんないことなんて、早く終わってしまえばいい。どうだっていい。そう思っていた。
 “ご主人様”のことだって、優しかったり怖かったり気まぐれな怖い男の人だとしか思っていなかった。自分みたいな子供に欲情するヘンタイだって、どこかで軽蔑していた。最後の頃の義父さんみたいに。
 たくさんいる女の子のなかでも、自分だけは違うと思っていた。だって、みんなヘンタイじゃないか。虐められてお礼を言ったり、痛いことされて嬉しいって言ったり、気持ちいいって叫んで気を失ったり、おちんちんを舐めたがったり。そんなことされるご主人様のことがみんな大好きで、ご主人様に呼ばれないと溜息をついたり。みんな頭おかしい。何考えてるの。わからない。怖い。心のどこかでずっとそう思っていた。
 私もこうなってしまうのかと考えると、とてつもなく怖かった。死んじゃうと考えるより怖かった。
 心を硬くしていた。何をされても傷つかないように。心を閉ざしていた。何があっても平気なように。何があっても変わらないように。何が起こるかわからない日々の中で、ある日突然命が終わっても平気なように振りをしていた。心を、閉じ込めていた。あの狭い冷蔵庫のなかに。
「でも…」
 それじゃ、ここでは生きていけない。生きている、価値もない。みんなとは違うまま。ひとりぼっち。誰もいない。愛されない。
「でも…」
 私は、そんなふうには、思えない…。愛せない…。モノになんて、なれない…。
「私は…わたしは…」
 震えが来た。
 何もわかっていなくて、わかっていないこともわかっていなくて、どうしようもない。どうしようもない自分がただここにいることだけがわかった。
「わたしは…」
 涙が滲んで、零れた。
「…」
 香子さんは、私の震えている手から、中身がまだ半分くらい残っているカクテルグラスを取って、中身を口に含んだ。そのまま
「…っ」
 香子さんは私の唇に、唇を合わせた。
 長い、接吻。
 流れ込んでくる、甘いお酒。
「…んっ」
こく
 噛みつくようにしっかり合わせられた唇から、入り込んできた舌に導かれて流れ込んできたどろっとした液体を、私はそのまま飲み下した。
 私の口の中にも、香子さんの口の中にも、お酒がなくなってしまってからも、香子さんの舌は、私の中に居続けた。
「…うんっ」
 息をすると、ツンとしたミントの匂いが鼻に抜けた。さっきは苦いような気がしたその香りを、今は心地よく感じた。
「…っん」
「…ふぁ」
 唇が、離れた。
 けれども、香子さんの目は、離れることなく私を見つめていた。
「は…わ…」
「小夜ちゃん」
「は…い」
「もっと、飲む? や、飲も」
「え…」
「一緒に飲も。泣くなら、泣こ。泣いて、ちゃんと泣いて、寝て、朝になったら、また一緒に、ご主人様にお仕えしよ」
 香子さんが、私の顔を両手で抱いて、涙の跡を親指で擦った。
「小夜ちゃんの気持ちがわかる、かどうかはわからないけど、私も、ここに来たばかりの頃は、よく泣いたの。ひとりで。そのうち憂子ちゃんが一緒に泣いてくれた」
「でも、小夜ちゃんが泣いてるの、見たことない。私も、誰も。強い子だなって、思ってた」
 そんなことはない、と思う。他ならぬ香子さんの胸でも、何回か。でも、
「でも、泣いてもいいんだよ」
 香子さんの言ってくれていることの意味は、わかった。
「普通の女の子だったんだもんね。いきなりこんなところで、奴隷になれとかお前はモノだとか言われたって、わかるわけないよね」
「辛いことだって、たくさんあるよ。寂しい思いだって、しないわけないよ。でも、それは隠さなくてもいいんだよ」
「みんな、寂しくて不安で辛くて泣いて、痛くて苦しくて嫌で嫌でたまらなくて泣いて、何もかも諦めて泣いて、泣いたの。みんな、そうなんだよ。みんな」
 香子さんの腕が伸びてきて、私は今夜何度目かの香子さんの胸に抱かれた。
「だから、辛かったら泣いていいの。私も憂子ちゃんもみんな一緒にいるから。ご主人様だって、小夜ちゃんのことを大事に思ってくれているから。独りじゃないから」
 でも…。
「泣けないなら、お酒のせいにして泣こう。お酒は、強い子をほんの少しだけ弱くしてくれるの。弱くてもお酒のせいだから。泣いちゃってもいいんだよ」
 香子さんの腕に抱かれて、香子さんの温かい身体を伝って響いてくる優しい言葉に包まれて、私は泣いた。
 時計の鐘の音なんか比べものにならないくらいの激しい慟哭と、息ができなくなるくらいの嗚咽を繰り返して、私は泣いた。初めて、ほんとに。
「…………ぁ……」
 自分の口から出ているとは思えない大きな叫び声泣き声が止まらなく響いた。
 涙と鼻水でぐしょぐしょになっている私のことを、香子さんはずっと抱いていてくれた。あたまを撫でてくれた。
 泣き続けてどのくらい時間が経ったのか、泣き疲れて喉が痛くて声ももう出なくて頭ががんがんしてふらふらしていたけれど、香子さんの言葉ははっきり覚えている。
「泣くだけ泣いたら、今度はお菓子を食べよ。甘いお菓子はね、弱い女の子を元気にしてくれるから」

 その後のことは、もう覚えていない。
 気づいたときには、自分の部屋のベッドのなかだった。私は、泣き疲れて眠ってしまったらしい。二人が着せてくれたのか、ちゃんと寝間着も着ていた。涙の跡で顔がぱりぱりしたのと、喉がいがらっぽくて声が掠れていたのと、二日酔いなのか泣きすぎなのかわからない頭痛が、昨晩のよすがだった。
 もう日も高くなっていて、月曜日だからご主人様はとっくにお出かけになっていて、朝のご奉仕もお見送りも全部すっぽかしてしまった。そのことをみんなに謝って回ったのだけど、香子さんもみんなも、笑って許してくれた。憂子さんからは、素っ気なく軽く注意をされたけど、怒られはしなかった。
 夜にはご主人様にも平謝りで謝った。ご主人様からは、目が覚めて小夜子がいなくて寂しかったと言われた。その言葉にちょっと胸がどきんとして、いっそう申し訳なく思った。その分、夜は精一杯ご奉仕をした。喉が痛いと言ったらフェラチオはしなくていいと気遣ってもらって、嬉しかった。嬉しい気持ちを胸に抱いてのセックスは、それまでとまるで違った。初めて気持ちよくなって、気持ちよくイってしまった。
 その夜はそのまま眠ってしまって、目が覚めたときには明るくなっていた。夜中に起き出すことは、もうなかった。

 次の次の日は、ご主人様がお帰りにならなくて、残ったみんなでお茶会になった。
 夜の十時を過ぎてからのお菓子が格別の味なのはなぜだろうと真剣に議論しながら、私は約束を果たした。甘い甘い、チョコミントアイス。
 チョコミントアイスを一緒に食べて、私は久しぶりに、笑った。




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Date:2011/12/18
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Thema:官能小説
Janre:アダルト

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* まとめ【或る夜の出来事(後編】

或る夜の出来事(後編)「まったくもう、人が気にしてることを…」「だから、ごめんねって言ってるじゃな
2012/11/19 【まっとめBLOG速報

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