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□ 『研修』 □

『研修』 07 ユーズド(3)

 遊び尽くして飽きた玩具は、どうするか。 
 捨てるか。 
 取っておくか。
 売るか。
 どうせなら最後に壊して遊ぶ、という人もいるだろう。

 玩具の中でも、飽きた奴隷の処分をどうするかは、難しい問題である。
 
 「捨てる」という方法を、単純な放置や投棄のことを指すとしよう。いらないものは捨てる。これほどシンプルな考え方はない。けれどもそれはほぼ有り得ない。奴隷は姿形は人間であるから、煙草の灰のように、街中やゴミ捨て場にポイと捨てるわけにもいかない。見つかればすわ性的暴行、そのまま息絶えてしまったら殺人及び死体遺棄の大事件になってしまう。
 もちろん、奴隷の主人ともなれば、どれほど大事になっても、表沙汰にならないように手を回すことは出来る。捨てられた奴隷が、主人や奴隷生活のことを喋ったとしても、騒がれないようにすることはできる。しかし、それならばはじめから、そんな面倒なことをしなければよい。飽きて捨てたものの為に煩わされるというのは馬鹿馬鹿しく、そのような愚かしい真似をし続けるならば、奴隷の主人としての良識を疑われることになるだろう。
 
 そう、これほど字義にそぐわない言葉もないかもしれないが、奴隷の主人たちの間には、奴隷を大事にしようという「良識」を持つ者も多い。犬猫が好きでペットとして飼う者たちは、自分の子供のように犬猫を慈しみ、繁殖による誕生から老衰に至るまでの生涯を見守る。それが飼い主の責任であると、犬猫の愛好家は言うだろう。況や奴隷をやである。一度飼ったからには、無責任なことをせずに幸せにしてやるのが、飼い主の役割であるという考え方である。なので、みだりに捨てないようにというのは、飼い主の最低限のマナーであるとされている。
 尤も、奴隷の主人が考える幸せと、奴隷自身が考える幸せは、必ずしも同義ではない。犬猫の飼い主たちが、大事にしようとするあまり、冬にトレーナーを着せて散歩をするように。自分の子供と同じように扱うあまり、人間と同じ、動物にとっては濃い味付けの餌を与えてしまうように。幸せとは、あくまでも飼い主が一方的に与える勝手な思いである。
 それは、言葉が通じない犬猫相手であったとしても、ものを考え言葉を発する奴隷であってもいささかも代わりはない。人間同士ですら相手の心を推し量ることしかできないのだから、況や奴隷をやである。
 牝なら子供を産むのが本懐であろうと孕ませることも、美しい姿を永遠に保ちたいだろうと剥製にすることも、肉が固くなる前に仔牡奴隷に抑制剤を投与し、美少年のままに留めることも、すべて奴隷にとっては幸せなことである。そうなれば主人の元で末永く愛されるのだから。
 主人が奴隷にはそうあってほしいと願い、奴隷は主人の望みを叶えることが希望であり存在理由であるという理屈の元では、すべてが奴隷の幸せであり、それを施してやることは、飼い主の良識に叶うといえよう。


 さて、そのように心を配り丹誠込めて仕立て上げた奴隷であるから、少々飽きたとしても簡単には処分したくない、「取っておこう」という主人も多い。今は興味が移っているとしても、再び立ち戻ってその味を見たくなるに違いない。手をかけて一人前にした自分の作品のごとき奴隷を、手放してなるものか。他の者に譲るなど考えられぬ、などという思いからである。 
 かつて、もう遊ばなくなった玩具を、いいかげんに捨てなさいと母親に叱られたり、いきなり捨てられてしまった覚えのある人は多いだろう。ものを捨てる理由の大半は、置き場所や収納の問題である。しかし、奴隷を所有できるような者が、そのようなことを頓着するはずもない。怖いママに口を出されることや、勝手に捨てられることがなければ、処分せず取っておくのに障害はないだろう。いや、怖い嫁に嫉妬されることはあるかもしれないが、それをくぐり抜けねばそもそも奴隷の所有などはできないだろうから。
 このような意味でも、奴隷を所有することは、究極の玩具であり道楽であると言えるだろう。こうして、王族の後宮に召し上げられた数多の愛妾のごとく、主人の訪れを待ちながら檻の中で日暮らす奴隷の列ができるわけである。

 しかし、いかに気に入った奴隷を取り置いて揃えて並べておいたとしても、骨董などのコレクションとは決定的に違うところがある。
 奴隷は生き物である。時が経てば、子供ならば成長するし、大人ならば老いていく。主人の好みの状態で保管することなど、できはしない。なるほど確かに、薬物投与や生活環境や教育によって、精神的な変化を強引に留めることはできる。滋養あるバランスのとれた食生活で健康を維持させることにより、肌年齢や骨年齢などの肉体的なコンディションを維持することもできるだろう。しかし、完全に留め、時の流れに逆らうことなどできはしない。尤も、それができるならば、まず主人たちは自分の性欲や若さを留めようとするだろう。そして寿命の続く限り、新しい奴隷を求めるに違いないが。
 まとめて言えば、奴隷の価値は、留め置いて保管することは出来ないということである。

 少し視点を変えてみよう。経済的に言うならば、奴隷は大枚を叩いて購入する物品、つまり資産である。この点を鑑みれば、骨董よりも競走馬の喩えが適切かもしれない。同じく生き物であるし、調教次第で如何様にもなるもの同士だからである。尤も、その価値の基準が速さしかない競走馬と比べれば、求められる価値は遙かに多様であり、ピークの時期も様々である。しかし、間違いなく同じなのは、いずれは価値が下がっていくということである。
 語弊はあるが、奴隷は耐久消費財と見ることもできるかもしれない。勿論、奴隷は工作機械などとは違い、また競走馬とも違って、金を稼ぎ出すことは要求されない。奴隷はひとえに主人の満足を満たすことを求められる。壊れて用を為さなくなった工作機械や、飼い葉の代金すら稼げなくなった馬が処分されるように、奴隷も主人の満足に叶わなくなった時、処分されるのだとも考えられよう。
 しかしながら、奴隷は高価な代物である。市場で購入する際には、大枚を叩かなければならない。たとえ自らで捕獲したとしても、調教のために費やす時間や費用は膨大なものとなる。
 けれども、それに見合うだけの満足を、奴隷が提供し続けてくれるとは限らない。生産性の評価は主人の胸先三寸であり、人の心は移り変わりやすいものなのだから。大金を費やしても、当てが外れるということはままあることである。
 だが、資金に見合うだけの満足が得られない、つまり減価償却しきれなければ、それは損失である。その損失を最小限に抑えるためには、経年劣化による損耗が嵩む前に、さっさと売り払ってしまうという判断もまた得策である。

 具体的に言うならば、飽きた奴隷はすぐに売ってしまえということである。その奴隷の味を惜しみ、しばらく手元に留め置いたとしても、その奴隷は徒に年をとっていくだけである。いろいろな趣味の主人がいるとは言え、その肉体的性的魅力が衰えるにつれて、どんどん買い手の範囲は狭まっていく。いざ売り払おうとなったときには、まっとうな買い手が付かないということになりかねない。そうなれば、その奴隷にとっては一番の不幸である。
 
 また、徒に手元に留め置いたままの状態は、奴隷自身が涙に暮れる時間でもある。奴隷となったら、主人以外の人間との接触はほぼなくなる。あったとしても世話役か、奴隷仲間である。しかし、主人に心を捧げるように調教された奴隷は、それで満たされることはない。
 先に挙げたような後宮の愛妾たちならば、王の訪れがなく無聊を託ったとしても、女官と戯れ事をして心を慰めることもできるだろう。しかし、奴隷にそのようなことを許すことは稀である。奴隷は常に主人のことを思い、お召しに備えなくてはならない。それが幾日も無駄となることほど、辛いことはないだろう。よく仕える奴隷は、お呼びのかからぬ夜には、独り寝で枕を濡らすという。
 それならば、いっそ手放して、新しく仕える主人の下に送り出してやった方が、幸せであるともいえるだろう。いかに愛着のある奴隷であっても、主人によく仕えてくれた奴隷であっても、適切に売ってやることもまた奴隷の幸せなのである。




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Date:2009/10/11
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Thema:官能小説
Janre:アダルト

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