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闇の箱

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□ 『研修』 □

『研修』 07 ユーズド(2)

 オークションハウスが奴隷を仕入れる経路は、先に述べたような業者からの買い取りが大半である。そのほかに中間業者による卸の競売や、個人客からの買い取りも少なくない割合で存在する。顧客が奴隷を手放すときに、その下取りを引き受けるのも、オークションハウスの重要な仕事である。
 
 顧客が奴隷を下取りに出すのは、どういう時だろうか。
 一番多いのは、その奴隷に飽きたときである。どれほど大金を出して競り落とし、時間をかけて調教したとしても、その熱が冷めないという保証にはならない。大恋愛の末の夫婦でさえ離婚することは珍しくない。いやむしろ熱愛だからこそ、醒める時は速いのだろう。夫婦や恋人でさえそうなのに、ましてや奴隷である。
 
 奴隷の飼い主が、どのような感情を抱いて奴隷を欲して接するのかは、その主人次第である。
 家族や恋人に向けるような愛情を抱く主人もいれば、愛玩動物のように慈しむ主人もいるだろう。支配欲や嗜虐心を満足させるために飼う者もいれば、憎しみや恨みを晴らす為に特定の奴隷を欲する者もいるだろう。
 その感情の表し方も様々である。牝奴隷を娘のように愛する男もいれば、ハーレムのスルタンのごとく侍らせ、靴を舐めさせる女もいる。鞭で打つことが憎しみではなく愛情から来ていることもあるだろうし、愛情ではなく支配欲によって頭を撫でることもあるだろう。
 
 しかし、一様に言えることは、主人と奴隷という、決して相手が逆らえない関係において、一方的な自分の思いを、奴隷に叶えさせるということである。責め苦に歪み泣き叫ぶ顔を見たいと主人が望めば、奴隷は責めを享受しなくてはならないし、口で性器に奉仕し続けろと言われたら、どれだけ顎が疲れようとも一晩中でも続けなくてはならない。
 その中には、恋愛すら含まれる。人と人との感情のやりとり、お互いの心を通わせる行為でさえ、奴隷の側に真の自由はない。無論、奴隷といえども人である。隣人を愛せと神が仰って二千年経っても戦争が無くならないように、主人を愛せと命じられても単純に愛せる訳ではない。心の底では、反抗や憎しみや侮蔑や嫌悪を抱くこともあるだろう。勿論、それを露わにすることを許されてはいないし、奴隷生活が長くなればそれは徐々に矯正されていくのが一般的である。
 
 そう、奴隷としての躾が進めば、どのような感情を沸き起こし、どのような想いを抱かせるかすら、主人の意のままになる。それが愛情であってもである。躾の巧い主人にとって、自分に愛情を向けさせることは造作もないことだ。
 家族や友人や社会と切り離された環境で、自分の生殺与奪を一手に握る個人を意識しないことなどあり得ない。それが幾度となく肌を合わせ吐息を感じる相手ならばなおさらである。不安や恐怖を抱くこともあれば、気に入られるように媚びを売るように考えることもあるだろう。そして慈しまれれば情を感じないわけがない。それらすべてが、たった一人の主人との関係において生まれる感情である。奴隷の心は、望むと望まざるとにかかわらず主人のことで一杯になる。それを愛情へと誘導するのは容易い。カルト宗教が、外界から隔離した空間に信者を閉じこめ、修行によって擬似的な極限状態を体験させ、依存や逃避を信仰心へとすり替えるのと同じである。
 
 主人が奴隷に恋慕してしまい、奴隷に対等の関係を求めたとしよう。忠誠や恭順ではなく誠の愛情を欲して、プロポーズをして法的にも夫婦になったという例も、無いわけではない。しかし、それは幾重にも嘲笑をもって語り継がれている。
 一度奴隷として買われ、飼われた事実は消えはしない。人間が奴隷に堕ちるということは、思考の根本から作り替えられて、主人に尽くすだけのモノとなるということである。そう簡単に人間に戻ることができるような調教は、中途半端なものでしかない。そして、奴隷を人間として見てしまうのも、また奴隷の主人としては甘いということになる。それはせいぜいがところ、性的嗜好におけるSM趣味の延長線上でしかない。
 もちろん、主人も人間であるから、手ずから一から調教を施し、奴隷に仕立て上げたモノに対して、情を抱くことは避けられない。それを愛情とすり替えてしまうことも、またやむを得ないことである。けれども、それほどまでに心血を注いで丹念に奴隷に堕とした者を、また人間に戻そうと判断するのも、また主人の心持ちの範疇でしかないのである。奴隷から人間に戻れと、自分と対等の関係を築いてほしいと、そう命じているに過ぎない。生殺与奪の権利を行使して、人間としての生を与えただけである。当人たちが納得していたとしても、その関係にはどうしたところで歪なものが残るだろう。一旦奴隷となって、奴隷と主人という関係を築いてしまったら、それはどうあっても覆ることはないのである。

 奴隷と主人の有り様は千差万別であるが、その根本は変わることがない。語弊を承知で解り易い表現をすれば、「人間並みに複雑な感情と肉体を持ち合わせた愛玩動物」というのが、奴隷の正しい認識かも知れない。つまりは玩具である。

 そして玩具とは、飽きるものである。玩具は、欲望を満たすためのものである。それは子供の合体ロボットから骨董、快楽を生む大人のオモチャまで変わることがない。そして、人間の欲望は果てしがない。今満たされているものでも、新鮮味が失せることもあるし、今ある刺激が物足りなくなることもある。今と同じようなもので、もっと違ったもの、まだ見ぬものを欲しいということもある。それは本や音楽にも言えることである。擦り切れるまで一冊の本を読み尽くして人生が終わってもかまわないという者は、敬虔な聖職者くらいのものであろう。それですらどうか。

 いかにお気に入りの奴隷であったとしても、飽きが来ることはやむを得ない。奴隷に求められるのは、飽きられるまで精一杯奉仕して、ご主人様の欲望を最大限に満たすことである。むしろ飽きられるまで尽くせたら本望という心持ちになれれば、一人前の奴隷と言えるであろう。




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Date:2009/09/19
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Thema:官能小説
Janre:アダルト

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